テニス部顧問就任によせて

Photo_2 一昨年の夏、母校の筑波大学に赴任しました臨床医学系麻酔科の田中です。私は筑波大学医学専門学群7回生(1986年卒業)で、硬式テニス部OBということから、今回顧問を拝命いたしました。立場上、部長でいらっしゃる松村教授を補佐しなければいけないものと拝察しておりますが、卒業以来ゴルフクラブには時折馴染んでおりますが、テニスラケットは殆ど握っていない、テニス部OBとして風上にも置けない体たらくであります。顧問としての役割を果たす上で、現役・OBの皆様には叱咤激励、ご指導ご鞭撻の程、この場を借りてお願い申し上げます。

J0400252_3 さて、約10年ぶりに母校へ戻り硬式テニス部を眺めてみますと、私が現役時代の20数年前、春季リーグ4部昇格を目標に日々コートで汗を流していた頃とは男女共に隔世の感があります。当時としては夢のまた夢であったリーグ戦1部優勝や東医体優勝は、今や現役諸君の手が届く現実的な目標となっています。大いに結構で、見事目標を果たした時には、部員全員で素直に喜び、祝い、健闘を称えてほしいし、残念ながら目標に到達しなくても、皆さんが全力で(試合に、応援に)臨んだ誇りを胸に、その悔しさをバネに更なる一層の努力をすれば宜しいと思います。ここで私事を少し述べさせて頂くと……M4からM5の夏までテニス部のキャプテンを務めた後、知力と体力、即ち学業とクラブの両立に限界を感じた私は、新たな夢を追い求めるべく、入学以来つねに生活の中心だったテニスとは少し距離を置く決断をいたしました(詳しくは稚ブログ:http://tsukuba-accm.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_0240.htmlをご参照下さい)。M6の夏、暫定的にクラブに復帰するまでの間、私個人は多くの葛藤と戦いましたが、その間、理解ある先輩方に励まされたことは忘れることの出来ない最大の収穫であるとともに、多様な価値観と目的を持った不均質な集団である医学テニス部の懐の深さを知る良い経験にもなりました。

Photo_3 今は昔、限られた学生時代は白球を追うもよし、活字を追うもよし、皆さんが何事にも悔いなく全力で取り組むことを切に願っております。我々教員はそれを助け、激励し、健全で良識ある方向に正しく導くのが責務です。その過程で、医学テニス部で過ごした日々の達成感、コートでの爽やかな風や喜怒哀楽、培われた人間関係など、多くの得がたき財産を共有できますことを心からお祈りしております。

人間総合科学研究科 機能制御医学専攻 麻酔・蘇生学 教授

田中 誠

| | コメント (14) | トラックバック (0)

万歳三唱

高校2年の秋から2年間、サウス・ウエールズという英国の片田舎で過ごした私は、IBに合格後1979年の夏、帰国した。日本の高校の同期生のうち現役で大学に合格した者は既に大学1年生である。夏休みにはアメリカの大学に合格していた別の日本人留学性や別の浪人生と遊び呆けた記憶が正しかったとすると、あまり追い詰められ切羽詰った意識Lrg_13416100_3 はなかったのだろう。受験を経験していないのに既に浪人生となった自分を、中途半端な時期に受け入れてくれる予備校はなく(探しもしなかった?!)、仕方ないのでやはり昔のツテで友人が通っていた代々木界隈の予備校に潜ることとした。「万歳三唱」はその頃の浪人生たちの(実は我々だけの)奇行であった。

夕方予備校の授業が終わると代々木から新宿西口までノンビリ皆で散歩し、当時京王プラザの他唯一の高層ビルだった住友三角ビルの40何階にあった(あのオレンジ色の看板が目印の)喫茶「マイアミ」で暢気に コーIndex_bg02_2 ヒーを啜り、夕日に富士のシルエットが浮かぶ頃、小田急デパートの入り口前まで行き誰が言い出すともなく、予備校生 数名でかなり場違いな「万歳三唱」をするのである。あの頃僕たちは何に対して「万歳三唱」したのだろう。前途洋洋たる未来に対して?まだ見ぬ将来への不安を一掃するため?くたびれた心身に喝を入れるため?皆その時だけは、丸まった背中をピンと伸ばし、両手を高々と挙げ声を振り絞るのだ。

駅のホームに向かう途中、昔のツテがポソッとつぶやいた、「みんな春には大学受かるといいな」。あの頃の浪人生仲間たちは今、何をしているD16796a8bf5c6a16fa2e555eb68a74ef_2 のだろう。くたびれた体を満員列車にあずけ、日々黙々とサラリーマン生活を送っている のか。30年前、心密かに抱いていた夢や志が叶えられたのだろうか。夕闇迫るころ予備校通いの学生さん達を目にすると、つい暢気だった自分の浪人時代を思い出してしまう。ガンバレ受験生!そういえば、うちの長女も今春から予備校生活でアル。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

指折り数えた

Johns Hopkinsで産科麻酔のレジデントをしていた頃の当直回数である。Swap08a

レジデントの総勢60名、スタッフ100名を擁する巨大な麻酔科では、4週間ごとに麻酔のサブスペシャリティーをローテーションすることになっていた。今月(正確には4週間)は小児麻酔、来月は外来手術の麻酔、その次はICUといった具合に2年間過ごすわけである。その中でレジデントが肉体的・精神的負担から最も敬遠していたローテーションが産科麻酔であった。麻酔科後期研修1年目に相当するCA-13名、順番に1日目=日勤(朝7時~夕方5時頃まで、超勤は基本的にナシ)、2日目=朝7時~翌朝7時の24時間勤務、3日目=休み、のローテーションをほぼ10回繰り返し、従って10回の24時間勤務(当直)をこなすことになるのだが…….これがチョーキツかった。おまけに、日本に帰ったら産科麻酔を経験する機会がないことを考え、1年目の最初の1ヶ月の洗礼を浴びる前に2年目に2ヶ月間ローテーションする希望を出してしまった!

Swap10a 勤務内容は無痛分娩と帝王切開の麻酔に尽きるが、その忙しさたるや今思うと目眩がする。ちなみに小生の一日(24時間)の最高麻酔件数は、帝王切開7件、無痛分娩の硬膜外カテーテル挿入20件である。日中はもう1人のCA-1と手伝いのCA-23人で全ての分娩をこなしていたので、その日の帝切、無痛分娩とも約3倍あったことになる。無痛分娩のカテーテルを入れたら、30分ごとに無痛域のレベルを確認しなければいけないことになっていた。また、誰かが帝切の麻酔に廻れば、その人が担当していた無痛分娩は残りの誰かがチェックしなければいけないので、実質昼夜共に休んでいる暇が無い。忘れもしない、朝飲みかけのコーヒーを次に飲もうと思ったら---既に夕方だった、なんてこともしばしば。夜間は、30分ずつ4回も休めれば運が良い方である。そんな自分も、当直明けにはLancaster(http://www.cityoflancasterca.org/Index.aspx?page=1)の outlet までドライブがてらよく買い物に出かけていたナー。恐るべし、若き日の体力......

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自分への投資(言い古されたことだが)

Top_pic1 NOVAのユーモラスなコマーシャルを見なくなって久しい。

かつて一世を風靡した「駅前留学」の代表格は経営破綻し、会社更生法の適用を申請した。しかしこの事件が、「仕事帰りに気軽に英会話(^o^)(^o^)ノ゙」の風潮に水を差すのであれば残念でならない。かく言う小生も、半年ほど前には「駅前留学」しようと真剣に考えていたのだから……

筑波大学附属病院麻酔科の一つの良い伝統は、(月曜日を除く)毎朝「英文誌抄読会」があることだろう。週に一日、もしくは月に23日、「英文誌抄読会」を行っているところが大多数であろうと推測しているが、我々麻酔科ではそれが毎日なのである。当然、担当する回数は増えるし、小生も含めて均等に、ちょうど忘れた頃にそのdutyが訪れているのである。英語が好きな人も嫌いな人も、大学に在籍している以上は最低でも年間10編程度の英語論文は読まなければいけないことになる。がこの毎朝15分の間に、研究テーマのヒントを貰ったり、知識が整理されたり……仕入れた俄か知識を「最近の知見では....」などと他人に吹聴することさえ出来るのである。ほんの少しの負担で何十篇もの最新論文の知識を授受することが出来る、なんと便利なシステムであろうか?!

J0400379_2 もう1つの収穫は、医局員の英語に対するアレルギーが低減することである。

英語にaffinityがあるか否かで、

情報収集能力情報発信能力が違ってくる

e-learningも結構だが、医局の書棚にある英文誌や教科書の類、飾りではありません。皆さん、おおいに活用して下さいね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Japanese English nomenclature

あえてJapanese Englishと言わせてもらおう。以前、

「アンパンジェン」

とアメリカ人が発音した単語が実は

“Ampicillin and gentamicin”

J0236304_5 の略だったと述べたが、この時「もし僕らが学生の頃、gentamicinゲンタマイシンではなくジェンタマイシンと教わっていたらどうだろう」と考えざるを得なかった。もっと自然に、即座に、ジェンと聞いてgentamicinを思い浮かべていたのではないか?

同様にthiopentalチオペンタールhalothaneハロタンと言い換える学会用語を見る度に、「???」と思ってしまう。th-の発音が苦手な日本人がサイオペンタールと発音すれば、恐らく多くのアメリカ人は理解してくれるだろうが、チオペンタールではまず理解されまい。百歩譲って、仮に正しい位置にアクセントを置いてチオペンタールという発音に頷いてくれたとしても、それはthiopentalとは別モノのバルビツレートとして理解されるのが関の山であろう。アクセントの位置は言い直せば宜しい。しかし日本人のという発音をthi-と理解する感性は欧米人には無い。だとすると、もう少し学会用語は源の言語の発音に近い「カタカナ語」を採用すべきではないか?

ロビン・クックの訳本を読んでいても、「ER」の吹き替えを聞いていても、どうしてもこの辺りが気になってしまうのである。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

臨床研究のススメ

初めてやった研究が術後鎮痛だった。

今から17年前、某病院における婦人科手術後の疼痛対策に、当時としては斬新な「硬膜外モルフィン 4 mg + フェンタニール 100 µg」を採用し、特に手術直後の鎮痛効果に優れていることを実感していた。それ以前より筑波大学の麻酔科ではスタンダードな術後鎮痛法として硬膜外モルフィン 2 mgを用いていたが、術直後に耐え難い創痛を訴える患者が約25%もいることに気付いていた。実際、婦人科手術後に鎮痛薬を必要とする患者の割合を時間経過とともに追跡してみると、4人に1人が帰室後4時間以内に何らかの鎮痛薬を必要としており、その後は硬膜外モルフィン単独でも安定した鎮痛効果を発揮していた(下図:Tanaka M, et al. Regional Anesth 1991,16:214-7)

図1:手術後に鎮痛薬を必要とした患者の割合

Group 1: 硬膜外モルフィンのみ

Group 2: 硬膜外モルフィンとフェンタニール

Clip_image002_2 この硬膜外モルフィンによる初期の不十分な鎮痛効果は何が原因なのか?筑波大学附属病院における硬膜外モルフィン 2 mgと、某病院における硬膜外モルフィン 4 mgを比較しても、帰室後における鎮痛薬投与のプロファイルは全く同等で、4時間以内に25%の患者が創痛を訴え、何らかの鎮痛薬を処方されていた。即ち、モルフィンの投与量の問題ではなさそうである。今では硬膜外腔に投与された麻薬のPharmacokinetics, PharmacodynamicsCousinsらの研究で良く知られており、モルフィンの最大鎮痛効果発現に数時間を要することは常識だが、当時は副作用の心配と戦いながら、いかに良好な術後鎮痛を提供しようかと手探りで最良のdrug regimenを模索していた。

この研究から学んだのは2つ、得たものは計り知れない。

大学において卒直後より叩き込まれ、体に染み付いたスタンダード(?)は音を立てて崩れ、私が臨床を学ぶ姿勢は根本から変わった。所謂-ologyに普遍など無く、時代と共に新たに加わった知見によって変遷しなければいけないのだ。さらに卑近なところでちょっと工夫し一手間加えると(例えば、麻薬処方箋を一枚余計に書く)、患者様には大きな恩恵を施すことが出来ることも知った。

一方、英文誌への投稿がもたらす反響の大きさにも仰天したものだ。今のようにインターネットの時代ではなかったからか、正に世界中から別刷請求が届き、あっという間に50部が無くなったし、追加注文した50部も今手元に残るのは数部である。Multi-modal analgesiaが花盛りの時代、破竹の勢いだったKehletの総説に(Anesth Analg 1993,77:1048-56)、たった2編掲載された日本人の論文の一つに採用され、日本の学会に招待されていたMayo ClinicProfessorも「あのコンビネーションはグッドアイディアだった」とお世辞ながら私の論文を褒めて下さった。

今ではPCAなどという便利な機械が普及し、施設や術式ごとの薬の組み合わせ、投与量などマニュアル化されているのかもしれない。私たちが20年近く前、知恵を絞って世に問うた「硬膜外モルフィン + フェンタニール」のregimenは、今や見向きもされないであろう。いや、まだ地球上のどこかで、PCAが普及していない地域で、誰かが継続しているかもしれない。だとすると、例え小さな市中病院でも、ちょっとした工夫から世界中の臨床の実践を変えうる影響力を持った臨床研究を行うことができるのかもしれない。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

やっぱり語学力-1

1989年7月、幾多のハードルを乗り越えた末につかんだチャンスを生かし、大いなる希望と若干の不安を胸に、Johns Hopkinshttp://www.hopkinsmedicine.org/)での麻酔科レジデントが始まろうとしていた。思えば学生時代から5年越しの夢が叶ったわけだが、正直に申し上げると「今年チャンスがなければ諦めよう」とも思っていた。それまで日本で3年間、麻酔科レジデントを行っていたわけで、改めてアメリカで1からレジデントをやり直すには無駄が多いような気がしていたからだ。「若干の不安」と敢えて申し上げたのは、今思えば周囲の経験者たちの「英語、勉強しとけ」の忠告をよそに、自分では「何とかなる」と、自信とも楽観とも違う、目前の厳しさに背を向けて高をくくっていたからであった。高校時代の2年間はイギリスのウェールズ地方という、片田舎ではあるが日常生活も授業も一応英語漬けの日々を過ごしたので、少々錆付いてはいたが意思を伝えるだけならアメリカ英語でもイギリス英語でも大差ないだろうと思っていたし、それが油断に拍車をかけたことは否めないだろう。それを早くも思い知ったのは、Blalockの最上階にある麻酔科図書館でのレジデント研修開始時のオリエンテーションであった。ChairmanであるMark C. Rogers(写真:その後デューク大学副学長を経て現在は企業家)は数分だろうか、Welcome speechを猛スピードで喋ったが、これが全く聞き取れない!まるで……Mark_c_rogers_1

“Welcome to Johns Hopkins, ……aoeitufo e;odej oweoi564ase 6a5e7 ae ra687 654s6 4a6e6 4a6e87 68a7e68r 7a68e7 r6a8 er 6 er6abt8a79n7a97pkrygsr5df84gsfgs65f46sf5ghhgzf 6fg 7 df 76sd 6 s65 s65 4 s fsgsrsg6yrss6 6srb……OK, Dr. Tanaka(沈黙)

ってな感じ。どうやら一番近くで聞いていた自分に「自己紹介しろ」と言っているようで、”My name is……”、後は何を言ったか全く記憶がない。それ程に慌てふためき、緊張に震え、「これからの自分は大丈夫なのか?ちゃんとレジデントが務まるだろうか?」という漠然としたやり場のない不安に押し潰されそうになったのである。

その後、診療していく中で「英語が聞き取れない」理由は幾つかに分かれることを、徐々にではあるが分析することができた。その1、スペルや意味は知っているが聞き取れない単語がある。例えば”peripheral”なんていう単語は、日本語の中でカタカナ発音すると「ペリフェラー」になるが、実際のnativeの発音は「ッフ」の様に聞こえる。その2、アメリカ人は診療の中でやたらと略語を用いる。ある日、小児泌尿器科の手術中、チーフレジデントが突然こちらに向かって

「アンパンジェン、プリーズ

……小生:「ナヌ?アンパン?」に、この時は咄嗟に理解できたのだが、この「アンパン云々」を正確に略さず英文に直すと

"Ampicillin and gentamicin, please"

なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

70’s Music

私がしばしば訪れている後輩のブログ(ドクピラ: The Another Side: http://another.homeon.jp/)に、70年代の音楽がしばしば登場する。

70年代の終わり、イギリスにいた僕たちは注)Rolling Stonesの「Miss YouStones_1http://jp.youtube.com/watch?v=-U-ppc4lYyg)やRod Stewartの「Do Ya Think I’M Sexy」を浴びるように聞いていた。もちろんアメリカ物も好きで、EW&FRod2http://jp.youtube.com/watch?v=CgGYKVxWxjY)やJackson Fiveのパワフルな楽曲は、確かにイギリスのグループには無い健康的な大らかさとスケールの大きさがあった。でも

StonesRod Stewartのステージで見られるワルぶった振り付けも、まとまりのない演出も、いかれた腰つきも、その怪しさも、あのヘアースタイルも、背徳さも、けだるさも、何もかもが70年代のイギリス時代とだぶっていて、あの頃異国で抱いていた将来に対する漠然とした不安や焦り、一筋の希望といった、今まで心の奥底に仕舞っておいた魂をたまらなく揺さぶられるのだ。ああ、円熟のエンターテイナー達よ。

注) 1977年(高校2年)の夏、私はイギリスにあるインターナショナル・スクールに2年間Px_main_content_image_1 の予定で留学した(http://www.atlanticcollege.org/index.htm)。英国の南ウェールズにあるAtlantic Collegeは当時、60数カ国から2学年、100数十名の奨学金を取得した高校生を受け入れ、中等教育最後の2年間を共に寮で過ごさせることで、いわゆるInternational Understandingの精神を身につけるために設立された学校である。当時の理事長であるマウント・バッテン卿の後を継いだのは、あのチャールズ皇太子、最近では南アフリカのマンデラ大統領が就任している。多感な時代にイギリスで寮生活を送り、外国の同年代の若者と過ごした日々は、10年分の感情の起伏を2年間にギュッと圧Px_what_is_main_image 縮したかの様に、本当に本当に新たな経験の宝庫であった。笑い、悩み、誇り、高ぶり、落ち込み、励まし、恐れ、安堵し、いたわり、夢見ていた日々……今は懐かしくも切ない、もどかしい思いで回想している。あれから30年経った今、ようやく分かってきたことがある。

国際理解(International Understanding)とは、ただ単に知ることではなく、受け入れることなのだ。

筑波大学附属病院麻酔科(こちらもクリック!):http://www.md.tsukuba.ac.jp/clinical-med/anesthesiology/

| | コメント (1) | トラックバック (0)

The Johns Hopkins Hospital

The Johns Hopkins Hospitalはアメリカで最も歴史の長い大学病院の1つであり、設立は1889年、私が渡米したのが1989年であったから、設立後ちょうど100年にあたる。アメリカの東海岸、メリーランド州ボルチモアのダウンタウン東部に位置するHopkins Hospitalは幾つかのビルディングが一塊となり、Medical Health ScienceComplexを形成している。それぞれの建物にはBlalock, Halsted, Meyer, Osler, Marburg, Nelsonなど、Hopkinsにゆかりの深い医師たちの名が冠されているところがいかにもアメリカらしい。ちなみにThe Johns Hopkins Hospital1990年以降16年連続でU.S.NewsBest Hospitals Ranking1位に輝いており(http://health.usnews.com/usnews/health/best-hospitals/honorroll.htm)、職員一同そのことを大変誇りに思っていた。アメリカ人に云わせると、Hopkinsの人間はfacultyresidentも皆ワーカホリックだそうである。元来怠け者の私めに勤まるだろうか?その辺は後に洗礼を浴び、思い知ることになるのであった。

Hopkins_map_2 さて、中央手術室のあるBlalockは、あのBlalock-TaussigBlalockのことである。1918Johns Hopkins University School of Medicineに入学し、後に1964年に引退するまでHopkinsProfessor and Director, Department of Surgeryを務めている(http://www.whonamedit.com/doctor.cfm/2036.html)。一般手術室は24室、その他心臓外科、脳神経外科の手術室がそれぞれ3室ずつ、外来手術室がNelson 8室、眼科のみの手術室がWilmer Eye Institute10室、産科手術室(これもNelson)が3室(+ 分娩室6室)、合計50室超で毎年24千件の手術を行っていた。病床は筑波大学附属病院と同じ800床であるから、アメリカの所謂surgical hospitalの回転効率が如何に高いかが窺えよう。レジデントは3年で各学年20名、スタッフはProfessor以下Instructorまで総勢100名、内科の各departmentを合わせたより大所帯である。それというのも、アメリカでの麻酔科の役割はAnesthesiology & Critical Care Medicineで言い表せるように、集中治療をも包含した概念で捉えられているからであって、所謂SICU, MICU, PICU, NICU, Neurocritical Care Unitのスタッフはほぼ全員麻酔科所属、唯一麻酔科スタッフがメンバーになっていなかったのがCardiac ICUCardiac Surgical ICUのみである。そう...

アメリカで麻酔科とは、広く急性期医療を扱う内科系メジャーなのだ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ちょっと違うんぢゃないかナ

将来留学を希望している医学生の意見を拝聴していると、

ちょっと違うんぢゃないか

J0401001_1  と思うことがある。欧米の進んだ医療を学び、最先端の研究を志すことは大いに結構であるが、時に地に足が付いていない夢物語としか思えない意見に出くわすことがある。決して多くはないが彼らの一部は、将来外国で医師として過ごすことを一義的に考えており、海外で学んだ「何か」を本邦に持ち帰り、どの分野であれ日本の医学の発展に寄与しようとする視点に欠けている。留学すること自体が目的であり、ゴールであり、人生の全てになってしまっている。敢えて誤解を覚悟で述べさせて頂くと、日本に帰ってきてこそ留学には価値があると思うのだ。勿論、海外に留まり国際的に活躍され花開いた諸先輩は枚挙にいとまがないが、小生を含め圧倒的多数の凡人たちは外国の空気をさりげなく身にまとい、新しい風を吹かせるだけでも良いのではなかろうか。本当の目的はその先にあるような気がする。

筑波大学麻酔科ホームページ:http://www.md.tsukuba.ac.jp/clinical-med/anesthesiology/

| | コメント (2) | トラックバック (0)

«USMLE合格から臨床留学まで